読書・ビデオ鑑賞 2016年10月

新海真「君の名は。」
[2016/10/30]

新海真監督のアニメ映画「君の名は。」を見ました。
男女の中身が入れ替わる高校生2人が主人公です。時間と空間が折り重なる構成が巧みで、「うまいな」という感じがしました。 演出もなかなか秀逸。ただ、青春ものの甘酸っぱいラブコメなので、中学・高校時代ならもっと楽しめたと思います。
「君の名は。」は東京に暮らす男子高校生と、飛騨高山の女子高生の中身が時折入れ替わることで物語です。 都会と地方の生活感のギャップが作品の面白さにつながっています。 舞台は東京と飛騨で、その場所を知っている人が見たらすぐにわかるほど、風景がリアルに描かれていました。 ネットのレヴュー欄を見ても「きれいな映画だった」という感想を持った人が多かったようです。 この映画は「東京」、「飛騨」、「JR」など固有名詞を用いることで物語にリアリティを持たせると同時に、都市と田舎、男子と女子という主人公を取り巻く環境の対比を際立たせ、物語に厚みを持たせています。
ところで、アニメの舞台のモデルとなった土地を訪れることを、一部のコアなファンは「聖地巡礼」と呼んでいます。映画やドラマの「ロケ地巡り」のアニメ版です。 アニメが一大コンテンツになった今日、「聖地巡礼」は地方経済の活性化に一役かっています。 私はオタクではありませんが、「聖地巡礼」の楽しみはアニメを通して、その地域の雰囲気や空気感を体感することではないかと考えています。 アニメという虚構を使用することで、地方の生活に都会とは違うファンタジーを加味しているのではないでしょうか。「君の名は。」がヒットした理由もそこにあると思います。 そういえば、瀬戸内国際芸術祭などのトリエンナーレは美術と通して都会と地方が出会い、異質感や空気感を再発見する楽しみがありました。 地方と都会を対比させ、それぞれの良さを発見することが現代社会のトレンドなのかもしれません。 カープファンが広島出身、関係者だけではないように、東京人にも地方の感性を持てる人が増えたのかもしれません。 SNSが拡大して、東京発信の一極集中文化に、どうやら終わりが見えてきたようです。

写真:http://www.kiminona.com/images/top/main_vsl01.jpg


「アザース」
[2016/10/23]

アレハンドロ・アメナーバル監督のホラー映画「アザース」(2001年)を見ました。
舞台となる洋館の不気味さや、主人公の緊迫感、恐怖感が見事に描かれた、落ち着いた雰囲気のホラー映画です。
物語の舞台は1945年、終戦直後のイギリスの孤島にある洋館、主人公のグレースは2人の子供と、出征した夫の帰りを待ちながら暮らしています。 そこに3人の使用人が現れるところから物語が始まります。 物音や男の子の鳴き声など不可解な出来事が立て続けに起こり、洋館にいるはずのない何者かの存在にグレースはパニックに。 霧に包まれ、カーテンか閉ざされた洋館の様子や衣装、時代設定が調和し、劇中の恐怖感や不気味さ、物語全体の悲しく切ない雰囲気を醸し出します。

最後に謎が解き明かされる後味の良いホラー映画、私はこの映画の雰囲気が好きです。これから季節は秋、冬ですが、自然が衰退していく季節にピッタリの映画。
人生のはかなさも描けています。機会があれば、ビデオを見ることをお勧めします。

写真:http://iwiz-movies.c.yimg.jp/c/movies/pict/p/p/9a/2d/138201_01.jpg


『週刊文春』 『週刊新潮』10月20日号 ―ニュースのファンタジー性について―
[2016/10/16]

『週刊文春』にミス慶應中止の隠れた原因であるとされる例の事件について書かれていました。文春のスクープ以来、各メディアがこぞってこの話題を取り上げています。 今回のような衝撃的な事件はニュースでしきりと取り上げられますが、なぜでしょう。ニュースバリューについて社会学的な話をしようと思います。
ニュースの価値として、まず挙げられるのは情報そのものの重要性です。 今回の集団暴行事件の場合、大学関係者や関連企業、あるいは大学を志望する受験生にとって、報道された情報は慶應義塾大学を評価する基準になります。 事件や事故、商品の欠陥、企業の経営状態などに関するニュースは関係者にとって重要な情報ですが、それ以外の人にとっては、ほとんど価値の無いものです。 近所で起こった事件ならまだしも、他の都道府県、外国で起きた殺人事件が自分の生活に大きな影響を及ぼすとは考えられません。芸能人の不倫など、正直どうでもいい。 では、なぜニュース、ことにゴシップ記事は報道されるのか。
理由は簡単。我々が事件を面白いと感じているからです。「他人の不幸は云々……」というやつですね。ジルマンというアメリカ社会学者が実験によって、それを証明しています。 不謹慎な話ですが、内容が残虐、陰湿で、事件に意外性があればあるほど、ニュースとしての価値が高まることが分かっています。 今回の事件の場合は、「慶應」というネームバリューのある大学で起きた意外な事件であること、女子アナ輩出の「ミスコン」主催団体で話題性があること、かつ性的な内容を含む事件であることなどが混じり合って、ニュースに対する興味を高めています。 私は社会学を学んでいるので、ニュースを見て、いつもこのような分析をしています。しかしながら、身内の事件となると話は別。憤りや怒り、やるせなさ、感情的になります。 ゴシップ好きの私でも連日報道される映像やニュースを見ていると「慶応大学の悪口をいってほしくない」と思う(他大学の学生が同じようなことをやっても親身にはなりませんでしたが……)。
テレビで放映される事件、ゴシップを面白く感じるのは、あくまで自分と関係の無い時。 私たちは、現実離れした現実、「ファンタジー」として、人騒がせなニュースを見ているのです。 たまにニュースを見て、他人の気持ちが理解できる、共有できるという人がいますが本当でしょうか。 興味深いニュースと大切なニュースは違います。事件との距離間、差異性に情報社会の一面を感じることができます。

写真:http://lccomics.com/wp-content/uploads/2016/10/000-%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%BC-16.jpg
http://www.shinchosha.co.jp/images_v2/issue/cover/1844/1844_l.jpg


本を読むと眠くなる……
[2016/10/09]

「師匠は広告の鬼―もうひとつの吉田学校―」
石川周三著

以前このブログで大学生は全然本を読まないと書きましたが、ブログを見返してみてみると、結構本を読んでいることに気づきました。レポートや課題図書などを含めると月平均2〜3冊は読んでいます。僕が読むのはたいてい、ブログで取り上げている類の学術書で、あとはたまに自伝と物語を読みます。ただ、私は本を読むのが得意ではありません。文章を読んでいると、だんだん眠くなって、ZZZ……。うとうとしながら本を読むので、同じ個所を何度も読み返し、なかなか次の頁に進めません。3分の1位読むといつも読む速度が遅くなり、内容も全然頭に入ってきません。
ところで、先日、石川周三の『師匠は広告の鬼―もうひとつの吉田学校―』を読んでいて、「自伝」は読んでも眠くならないということに気づきました。余談ですが私は自伝を読むのが好きで、『福翁自伝』がお気に入りの一冊。ちょっと不思議に思い、何を読むと眠くなるか自己分析すると、学術書を読むと眠くなる確率が高いことに気づきました。ああ、確かにあれは眠くなる。学術書とは雑誌などに掲載された論文を本にまとめ出版したものです。論文ですから、自らの理論を立て、それを読者(学者・研究者を想定)が読んで納得するように文章を書きます。そのため、内容の大半を理論への論証が占めることになります。我々、読者が面白いと感じるのは筆者の主張の部分、社会学書でいうと社会にどういう構造や法則があるかという結論の部分で、統計データの山なんか見ても面白くないですよね。それは本全体のごく一部に過ぎませんが、これは読んでいて退屈で眠くなるはず。しかも、学術書のなかには論証のために、同じような事例がたくさん出てくるものもあります。羊が一匹、羊が二匹……、同じ内容の繰り返し。極めつけは、翻訳本で、学術用語や不自然な日本語のオンパレード、何が書いてあるのか分からない。あれだけの量を読んでも、入門書や概説書並の理解しか得られないのだからたまったものではない。メディアが本しかなかった時代ならともかく、現代では情報はコンパクトにまとめられるべきです。
物語や自伝はこれに比べると、ストーリーを追う楽しみがあるので、眠くなりにくい。特に自伝や実話をモデルにした物語は、現実に起きたことなので、リアリティがあって面白い。度胸と腕前と機転で荒波の中を生き抜いていく姿は、あこがれるものがあります。私もいつか、自伝を書けるような人生を、これから送りたいものです。

写真:https://www.amazon.co.jp/%E5%B8%AB%E5%8C%A0%E3%81%AF%E5%BA%83%E5%91%8A%E3%81%AE%E9%AC%BC%E2%80%95%E3%82%82%E3%81%86%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%81%A4%E3%81%AE%E5%90%89%E7%94%B0%E5%AD%A6%E6%A0%A1-%E7%9F%B3%E5%B7%9D-%E5%91%A8%E4%B8%89/dp/4883351831


「よい議論」
[2016/10/02]

古代ギリシアには弁論術という技術がありました。これは、論理的な演説によって相手を論破する技術で、ギリシアの政治家の間で盛んに学ばれました。 現代の論理学にあたります。哲学の祖、ソクラテスはソフィストと呼ばれる弁論術の先生でした。弁論術の訓練では、相手を論破するために、様々な意見に対する反論を考えます。

「パイドロス」におけるソクラテスもリュシアスの「恋している人に従うべきである」という議論に反論を試みます。 しかし、「恋は狂気であり、恋に陥っている人は盲目的になり相手のことを考えていないから、その人に従うできではない、恋は悪行だ(意訳)」と述べたところで、ソクラテスはこれが「恋の本質」とはかけ離れた詭弁であることに気が付きました。 そして、もう一度、弁論をやり直し、美のイデアの面影である身体的な美を愛する恋は、美のイデアに至る行為であるため、恋は他のものにまして「良い行為」であるという結論に達するのです。ソクラテスが詭弁に気付き、葛藤して、そこから真理に至る過程は感動的です。 ソクラテスは「パイドロス」の最後に、真理を探求しようとする人々を「智を愛する者(フィロソフィスト=哲学者)」と呼んで、詭弁をよしとするソフィストと区別しています。

このように、真理を探究しようという姿勢から哲学、そしてそこから分かれた現代の諸学問は生まれました。 論理的な整合性や、利便性を重視して、納得のいかない理論を容認、借用することは、学問が詭弁と決別してうまれた以上、それを志すものとして、やってはならないタブーなのです。 残念なことに、研究者の中には「説明が難しくなるので、便宜上、正しくない理論を元に解釈する」という事を行っている学者がいます。理系研究者のデータ改ざんの逆バージョンといったところでしょうか。 その理論が真理に最も近いと信じているならまだしも、間違っていると思っていながら、誤った理論を採用するなど言語道断です。 客観性や理論的整合性を重視するあまり、研究者が真理から遠ざかるのは皮肉なことです。「その点に関しては、考察の余地がある」と、潔く認めてしまったほうが学者らしいと思います。プロフェッショナルとして、譲ってはいけない一線があるのではないでしょうか。

写真:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/19/Anderson%2C_Domenico_%281854-1938%29_-_n._23185_-_Socrate_%28Collezione_Farnese%29_-_Museo_Nazionale_di_Napoli.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8c/David_-_The_Death_of_Socrates.jpg


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