読書・ビデオ鑑賞 2016年10月 |
新海真「君の名は。」
[2016/10/30]
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新海真監督のアニメ映画「君の名は。」を見ました。 写真:http://www.kiminona.com/images/top/main_vsl01.jpg |
「アザース」
[2016/10/23]
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アレハンドロ・アメナーバル監督のホラー映画「アザース」(2001年)を見ました。
最後に謎が解き明かされる後味の良いホラー映画、私はこの映画の雰囲気が好きです。これから季節は秋、冬ですが、自然が衰退していく季節にピッタリの映画。 写真:http://iwiz-movies.c.yimg.jp/c/movies/pict/p/p/9a/2d/138201_01.jpg |
『週刊文春』 『週刊新潮』10月20日号 ―ニュースのファンタジー性について―
[2016/10/16]
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『週刊文春』にミス慶應中止の隠れた原因であるとされる例の事件について書かれていました。文春のスクープ以来、各メディアがこぞってこの話題を取り上げています。
今回のような衝撃的な事件はニュースでしきりと取り上げられますが、なぜでしょう。ニュースバリューについて社会学的な話をしようと思います。
写真:http://lccomics.com/wp-content/uploads/2016/10/000-%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%BC-16.jpg |
本を読むと眠くなる……
[2016/10/09]
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「師匠は広告の鬼―もうひとつの吉田学校―」
以前このブログで大学生は全然本を読まないと書きましたが、ブログを見返してみてみると、結構本を読んでいることに気づきました。レポートや課題図書などを含めると月平均2〜3冊は読んでいます。僕が読むのはたいてい、ブログで取り上げている類の学術書で、あとはたまに自伝と物語を読みます。ただ、私は本を読むのが得意ではありません。文章を読んでいると、だんだん眠くなって、ZZZ……。うとうとしながら本を読むので、同じ個所を何度も読み返し、なかなか次の頁に進めません。3分の1位読むといつも読む速度が遅くなり、内容も全然頭に入ってきません。 写真:https://www.amazon.co.jp/%E5%B8%AB%E5%8C%A0%E3%81%AF%E5%BA%83%E5%91%8A%E3%81%AE%E9%AC%BC%E2%80%95%E3%82%82%E3%81%86%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%81%A4%E3%81%AE%E5%90%89%E7%94%B0%E5%AD%A6%E6%A0%A1-%E7%9F%B3%E5%B7%9D-%E5%91%A8%E4%B8%89/dp/4883351831 |
「よい議論」
[2016/10/02]
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![]() ![]() 古代ギリシアには弁論術という技術がありました。これは、論理的な演説によって相手を論破する技術で、ギリシアの政治家の間で盛んに学ばれました。 現代の論理学にあたります。哲学の祖、ソクラテスはソフィストと呼ばれる弁論術の先生でした。弁論術の訓練では、相手を論破するために、様々な意見に対する反論を考えます。 「パイドロス」におけるソクラテスもリュシアスの「恋している人に従うべきである」という議論に反論を試みます。 しかし、「恋は狂気であり、恋に陥っている人は盲目的になり相手のことを考えていないから、その人に従うできではない、恋は悪行だ(意訳)」と述べたところで、ソクラテスはこれが「恋の本質」とはかけ離れた詭弁であることに気が付きました。 そして、もう一度、弁論をやり直し、美のイデアの面影である身体的な美を愛する恋は、美のイデアに至る行為であるため、恋は他のものにまして「良い行為」であるという結論に達するのです。ソクラテスが詭弁に気付き、葛藤して、そこから真理に至る過程は感動的です。 ソクラテスは「パイドロス」の最後に、真理を探求しようとする人々を「智を愛する者(フィロソフィスト=哲学者)」と呼んで、詭弁をよしとするソフィストと区別しています。 このように、真理を探究しようという姿勢から哲学、そしてそこから分かれた現代の諸学問は生まれました。 論理的な整合性や、利便性を重視して、納得のいかない理論を容認、借用することは、学問が詭弁と決別してうまれた以上、それを志すものとして、やってはならないタブーなのです。 残念なことに、研究者の中には「説明が難しくなるので、便宜上、正しくない理論を元に解釈する」という事を行っている学者がいます。理系研究者のデータ改ざんの逆バージョンといったところでしょうか。 その理論が真理に最も近いと信じているならまだしも、間違っていると思っていながら、誤った理論を採用するなど言語道断です。 客観性や理論的整合性を重視するあまり、研究者が真理から遠ざかるのは皮肉なことです。「その点に関しては、考察の余地がある」と、潔く認めてしまったほうが学者らしいと思います。プロフェッショナルとして、譲ってはいけない一線があるのではないでしょうか。
写真:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/19/Anderson%2C_Domenico_%281854-1938%29_-_n._23185_-_Socrate_%28Collezione_Farnese%29_-_Museo_Nazionale_di_Napoli.jpg |