読書・ビデオ鑑賞 2016年9月

ポール・ウィリス「ハマータウンの野郎ども」
[2016/09/25]

「ハマータウンの野郎ども」
ポール・ウィリス著

大学の課題で「自分誌」を書いて自分の人生を振り返ってみて、自分も『ハマータウンの野郎ども』の一人だと思いました。 『ハマータウンの野郎ども』はイギリスの社会学者ポール・E・ウィリスによって1977年に書かれた本です。 ウィリスはこの本で、ハマータウンという架空の町の学校を舞台に、労働者階級の少年たちが、学校や教師、規則への反抗的行動を通して、男尊女卑、仲間意識など労働者的な価値観や体力、コミュニケーション能力など労働者として必要な技能を身に着けていく様を描いています。 私も小学校の時は、反抗的な児童でした。
ウィリスが述べているのは、あくまで労働者階級での話ですが、社会階級の再生産は他の階級でも同様に起きます。 私が持つ、社会や学校教育に対して反感は、反権力的なものではありません。 むしろ、「〜反対」「〜禁止」といったような、否定的で非現実的なイデオロギーへの反発であることが多いのです。 人は自らの価値観に反するものに対して反抗します。こうした価値観はブルデューのいうハビトゥスや文化資本など家庭環境によって形成されるものです。 学校での反抗的態度によって、階級が再生産されるというよりは、家庭によって形成された価値観が、それと合わない外部での価値と矛盾し、学校で反抗的態度をとるようになると考えたほうが自然でしょう。 学校の教える価値観と自らの価値観が合えば反抗的態度は起きません。 しかし、そうした人々は学校に反抗的態度をとる「野郎ども」に対し反感を抱いているはずです。 自らの価値に反する行為への反抗は、階級を問わず起こっており、それが再生産の一翼を担っているといえます。

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小津安二郎 「東京物語」
[2016/09/18]

小津安二郎の代表作『東京物語』を見ました。小津安二郎の映画を見たのは初めてですが、とても綺麗な映画でした。 物語中に劇的な要素はなく、日常的な出来事が淡々と描かれています。
一コマ一コマが丁寧に作りこまれており、絵画的な構成の画面の連続で、映画が組み立てられています。 落ち着きがあり、見ていて安心感があります。本当に、美しい映画です。
今の映画は撮影技術が進み解像度は高いものの、小津作品のような絵画的な美しさ、安心感や落ち着きに欠けています。 個人的な物語が中心で、映画が芸術から遠ざかっているような感じがします。
小津作品を含め1950年代の映画は美しく、映画として完成されていました。まさに「作品」と称するのがふさわしい映画ばかり。

ブログなので色々書かないといけないのですが、綺麗な映画だったという印象があまりにも強かったので、書くことが見当たりません。筆舌に尽くし難いというのはこういうのをいうのだと思います。小津作品をみた後、日常風景が今までよりも美しく見えるのも、小津作品の力でしょうか。


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人は何故、自殺するのだろうか
[2016/09/11]

「自殺論」
デュルケーム著

大学の課題でデュルケームの『自殺論』を読みました。『自殺論』では、社会との関わり方と人間の身体的な死の関係について考察されています。例えば、殉教や殉死、(特攻などの)戦死は、組織や社会と個人との結び付きが強固なために起きる集団本位的自殺が挙げられます。デュルケームの自殺論を考察すると、人間は「観念と現実のバランスが取れなくなったときに死ぬ」という結論に至ります。
人間には理想や正義など空想する観念的なところがありますが、これは必ずしも現実化できるわけではありません。 スポーツ選手や画家になりたくとも、才能が無いので開花しなかったという話はよく耳にします。 普通は諦めて、ファンになったり、趣味にして満足するのですが、才能が無いのに頑なに夢を追うと、現実とのギャップが生まれます。 金持ちになる夢を追い、首が回らなくなって死んだりもします。 「夢破れて」は極端な例ですが、不況による破産、家庭崩壊も経済情勢や個人の能力という観念的な数値を見誤ったために引き起こされる悲劇です。 このように、観念性が強く、現実に対応できないと人間は失敗し、それが最大になった時、自殺に至るのです。
デュルケームの自殺論では人間が自らの意志でその生命を絶つことを自殺と定義していますが、先程の理論を元に考えると精神的な自殺も存在していることが推測できます。
僕は普通の大学に通っていますが、回りを見ているとバイト、サークル、大学の往復がすべての人が結構多く、毎週、好き放題やって暮らしているのは少数派です。バイトがあるので遊びに行く時間が無いなんて言われると、矛盾を感じます。大学生も頑な生活を続けていると、感性の死を迎えることになります。うまく対応して、そんな生活は避けたいものです。

そうか、頭の柔らかい人間は、死なないのか。

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ドストエフスキー『罪と罰』
[2016/09/04]

ドストエフスキーの『罪と罰』を読みました。私はてっきり「罪と罰」は20世紀末、総力戦による大量虐殺の時代を前に、人を殺す罪について書かれた予見的な本だと誤解していましたが、連載が始まったのは1866年。日本でいうと幕末です。
当時、ドストエフスキーは賭博で破産し、借金の取り立てから逃れるような生活をしていました。その借金を返すために『罪と罰』を書いたといわれています。『罪と罰』は、学費滞納で大学を除籍された貧乏な青年が、借金を踏み倒すために、高利貸しを殺し罪の意識にさいなまれる話、当時のドストエフスキーの心境が繁栄させている気がします。ドストエフスキーも借金取りを殺したかったのでしょうか。そう考えると、凄い話ですね。これが書かれた後、世界は大量殺人の時代に入ります。それで「罪と罰」は、予言の小説と呼ばれるのですが、20世紀は人間が殺人を真剣に考える時代となりました。7月に起こった「相模原・障害者施設殺人事件」などを見ると、現在でも「殺人」について考えさされます。自己顕示のために犯す殺人をどのようにして防ぐか、それがこれからの課題となりそうです。その原点が「罪と罰」に描かれているような気がします。

ビデオ鑑賞   映画
「殺人狂時代 (チャップリン監督、主演 1947年)」
「華氏451 (フランソワ・トリュフォー監督 1966年)」
「市民ケーン (オーソン・ウェルズ監督、主演 1941年)」


写真:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/48/Klodt_Michail_Petrovich_-_Raskolnikov_and_Marmeladov.jpg
http://iwiz-movies.c.yimg.jp/c/movies/pict/c/p/c7/84/14691view001.jpg
https://www.amazon.co.jp/華氏451-DVD-オスカー・ウェルナー/dp/B0000QWX86
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E6%B0%91%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%B3#/media/File:Citizen-Kane-LC-5.jpg


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