読書・映像鑑賞 2016年7月

[2016/07/24]

社会心理学では映像を文字に起こし、トランスクリプトを作成してこうした映像の分析を行っています。 この手法がなかなか面白い。レポートの締め切りは過ぎているので大丈夫だと思いますが、ネットから剽窃(コピペ)疑惑をもたれると怖いので概要だけ紹介します。

題材にしたのは2015年のカルピスのCMです。

「カルピスウォーター」CM「海の近くで初夏」編(2015年放送、415秒)トランスクリプト

カット

映像説明

固定字幕

セリフ

上空から、波止場、寝ている男性に自転車をひいてで近づく黒島結菜

 

 

映上からのぞき込む黒島結菜のアップ

 

黒島結菜:もー

横から、顔を上げる男性、黒島結菜結菜の後ろ姿

 

黒島結菜:私の場所

前から、男性の隣に座る黒島結菜

 

 

少しズーム、男性からカルピスを奪い取る黒島結菜

 

黒島結菜:もらいっ

カルピスを飲む黒島結菜のアップ(口元)

 

 

カルピスを飲む黒島結菜のアップ、横顔全体

 

男性:この時がずっと
黒島結菜:(音ゴクゴク)

カルピスを飲む黒島結菜のアップ、男性が映りこんでいる

 

 

カルピスを飲む黒島結菜のアップ(口元)、滴る汗

 

男性:続けばいいのに

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カルピスを飲んだ直後の黒島結菜のアップ(カット8と同じ構図)

 

黒島結菜:ぷはぁ

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黒島結菜の斜め横顔アップ(額から口にかけて)、こちら側を向く

 

 

12

カルピスの映像

キュンのみしてる?

黒島結菜:キュンのみしてる?カルピスウォーター

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黒島結菜の顔、こちらをみてほほ笑む

 

黒島結菜:何見てんの?

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カルピスのロゴ

カラダにピース CALPIS

長澤まさみ:カラダにピース

これが、トランスクリプトです。

トランスクリプトからは、このCMにアップ画像が多用されていることがわかります。
こうした画像の使用は疑似プロクセミクスという理論で説明できます。 この理論は、人間の、親しい人ほど物理的な距離が近くなるという性質(親密距離)を逆手にとったもので、顔のアップ画像によって、その人物が近くにいるように見せ、親密な関係にあるかのように感じさせるというものです。 余談ですが、この理論の説明では、女子アナウンサーにファンがつく過程が例としてよくでてきます。こうした分析をもとに、女優への憧れが購買意欲につながるという趣旨の理論を立てました。
余談ですが、期末期間はいつもカルピスを飲んでいました。もしかして、このCMを見すぎたせいでしょうか。
社会心理学、恐ろしや……

映像:https://www.youtube.com/watch?v=XjWQ1L-ZgOY


NHK「ミレニアル世代は世界を変えるか/米サンダース旋風・韓国「7放」・香港雨傘革命」
[2016/07/17]

先日、NHKで「ミレニアル世代は世界を変えるか」という番組をやっていました。 この番組は、2011年のウォール街デモや香港のデモなど、近年、海外で盛んになっている若者の政治活動を取り上げていました。 学費や医療費の高騰、賃金の低下など、若者が直面する問題に中高年を支持基盤とする政治家が取り組まない現状を打破しようと、ITを駆使して多様な形で政治に関わる若者が紹介されていました。 こうした活動を展開するのは、1980年以降に生まれ、2000年以降に就職する「ミレニアル世代」と呼ばれる若者。 「18歳選挙」で投票に行った10代の若者や、1996年生まれの私もこの世代です。
先日の参議院議員選挙では、私も選挙権を得て初めての投票に行きました。 私の場合既に20歳なので「18歳選挙」にはなりませんが、大学の同期や後輩は19歳、18歳、法改正の恩恵を受けて投票に行ったようです。
これは若者の政治参加を促そうと導入された制度ですが、番組では、国会議員に20代の若手議員が少ないことが、政治参加が進まない一因として指摘されていました。 20代の投票率が80%を超えるスウェーデンでは2、30代の若手議員が全体の3分の1を占めています。 選挙人に続いて、被選挙人の年齢制限緩和は今後、国会で論点になるでしょう。
ただ、選挙年齢以前に、日本政治は政治勢力が「自民党に対する賛成と拒否」の二項対立で構成されているという問題を抱えています。 「憲法改正に反対」、「普天間に反対」、「アベノミクスに反対」、野党の掲げる政策はどれも「反対」ばかり。これらの政治目標は、与党に対する応答にすぎず、こうした政党は結果的に(皮肉ですが)与党に隷属しています。もし仮に20代の政治家が出てきたとしても、こうした枠組みから脱せないのであれば、意味はありません。若者の政治参加や政治的多様性の観点から、若者の視点を政治に持ち込むことが必要なのです。欧米の政治運動が日本に波及するのに約6年かかりますから、数年後には日本でも若者による政治運動が展開されるでしょう。その時出てくる同世代の政治家が、構造に取り込まれるか、日本政治に多様性をもたらすか、楽しみです。

従属もせず、反発もせず、己の気概を持って事に当たってほしいですね。

写真:http://livedoor.blogimg.jp/hiroset/imgs/e/4/e4c08444.png
http://pds.exblog.jp/pds/1/201602/20/10/d0174710_13161191.jpg
http://www.uezono-s.com/wp-content/uploads/2016/02/8caa71ba0ecff86d624c0b443bf424d6.jpg


大学生の本の読み方 ―レポートを書きつつ考える―
[2016/07/10]

「アジアのハリウッド―グローバリゼーションとインド映画」
山下博司他著

文化人類学の期末レポートを書くために、山下博司他「アジアのハリウッド―グローバリゼーションとインド映画」と山下環「アジア・映画の都―香港〜インド・ムービーロード」を読んでいます。
先々週から、大学生は本を読まないという記事を書いてきましたが、やはり学生は、本を読まないわけにはいきません。レポートや論文を書く上で、参考文献からの引用は必須になっています。 ただ、「(先々週のブログタイトル)」でも述べたように、1冊読みきるといった読み方は出来ないので、関連する書籍を片端から集めて来て、自分の研究テーマや参考になりそうな箇所だけ読むことになります。
その中で自説の参考になる箇所があれば、その周囲を読んで、理解を深めます。「広く浅く」読んで「必要なところは深める」といったところでしょうか。 こうした方法を駆使して、大学生は短い時間で様々な文献を読んでいます。
ただ、この読み方には問題もあって、一部しか読まないので、全体の文脈の中でその理論がどのように語られているのか、誤解を招く危険性があります。 また、研究分野によって、本に対する見方も変わってくるので、同じ書籍でも、違った説明や解釈の仕方も変わってきます。 自説の軸になるような理論が展開されている本など、重要なものはやはり、初めから終わりまで通して読んだ方がいいのでしょう。

「アジア・映画の都―香港〜インド・ムービーロード」
山下環著

写真:https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51T1tXJ-BHL._SX298_BO1,204,203,200_.jpg
http://www.mekong-publishing.com/books/0106.jpg


そもそも本を読む必要があるのか
[2016/07/03]

大学で「本を読め」と言われたり、ニュースなどで「若者の活字離れ」が叫ばれたり、一般に「読書」は美徳とされています。しかし、本を読むことは必要なのでしょうか。勿論、論文を書く際に引用したり、専門家になったりする場合は必要なのかもしれません。しかし、一般人が学術書を読んだところで何を書いてあるのかさっぱり理解できないか、分かったとしてもせいぜい概説書に書いてあること程度のことでしょう。また、学術書の場合は、調査結果などのデータが重要なので、反論する気がなければ、概説書や講義を通して理論を知っているだけで十分な気もします。
また、前回の記事では読書する学生が少ないことを取り上げましたが、若者に限らず、そもそも日本人が本当に本を読んでいるのか、よくわからない状況です。例えば、小学校などで福澤先生の「天は人の上に人を作らず、また人の下に人を作らず」を引用して、「福澤諭吉は平等主義者だ」なんて教えられた覚えのある人は多いと思いますが、「学問のすゝめ」を読んでいるとそういう解釈にはなりません。「しかれども、貴賤の差あり云々」と続き、実際には「貧富の差は個人の実力(学問の有無)に由来している」といった現実的なことが書かれています。学者でさえ、本をきちんと読んでいるかは微妙で、「(一般的な解釈に対して)ほんとに読んだらそういう解釈にはならないのに…」と嘆いている教授がいました。。
さらに言えば、学術書の中には、理論的思考の名のもと、学者が好き勝手書いているだけの論が散在しています。特にフェミニズム的なバイアスがかかったジェンダー論などは典型的で、文化や合理性からの考察なしに、「虐げられている」とか「搾取されている」とか、「利用されている」などの記述がしょっちゅう出てきて、読んでいるだけで嫌気がさします。そもそも、ジェンダー論はもともと男女に社会的役割の違いがあることを示しただけで、それが差別であるかは別問題なのに……。あのですね、日本人は昔から女性のアマテラスを主神にしている国なのですよ。男尊女卑のキリスト教の思想に侵された国ではないのです。
客観性とは、一体、何なのでしょう。実証性を主張する学者をみると、この人、人文系の理解ができていないな、とむなしい気持ちになります。理論的に整合性が取れていれば、でたらめを書いてもいいのでしょうか。それを正義とする考え方は、恐ろしい。
読書は強要されるものではなく、読みたい人が読めばよいでしょう。知識人ぶって、学説をひけらかせる時代は過ぎ去りました。読書に対する概念を、そろそろ変更したほうがよいですね。
「昔は、ネットもビデオもなく、暇だったから読書をしていた」という、父の言葉が読書の本質を表しているような気がします。

写真:http://01.gatag.net/0012476-free-photo/


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